高砂共栄会の歴史
浦和宿から明治,大正,昭和の時代と発展した旧高砂町の中山道沿いに,昭和9年の市制施行と共に商店街を設立したとされる高砂共栄会は,昭和60年5月10日に法人格を持つ商店街として生まれ変わりました。併せて歩道の設置に伴うショッピングモールを形成し今日に至っています。以来,県都浦和の中心商店街として活動しています。
昭和10年7月,浦和市制を記念して作成された旧高砂町5町の子供御輿と往年の方々。3列目中央の神職は先々代調神社宮司吉田氏で,1列中央が初代浦和市長の小谷野伝蔵氏(壽屋),竹田千代作氏(柳屋酒店ビル),小泉庄八氏(浦和ワシントンホテルビル),佃喜代治氏(佃文教堂),石塚福蔵氏(八百久),他の方のお名前は判明できませんが,当時の商店名で挙げると,中村屋鰻店,相川飼料店,金子米店,小泉薬舗の方々で,大変貴重な写真です。
往時の高砂町の宮出であろう1枚の写真。ここには映っていませんが,高砂町の神輿は現在の調神社本社神輿。猿田彦の面を被っている白丁(白帳)姿も後に見えます。羽織袴姿のお二人は,向かって右が佃喜代治氏,左が竹田千代作氏。
戦前の調神社入口。奥に社務所もなく,通称駒兎も現在のものとは違います。駒兎は銅製だった為,先の大戦で軍に接収されてしまいました。右の駒兎の後に聳える石塔は『懸社延喜式内調神社』と刻まれており,明治時代末期,高砂町の有力者が伊勢神宮参拝を記念して奉納しました。奉納名は『高砂講』。
現在の入口。奥に社務所も見え,樹木も鬱蒼とし,守兎の形もはっきりと違いが判ります。戦後,仲町の玉蔵院より授かり移築されたと言われています。